かきたま波江の休日

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あの時の勘違い

以前やっていたブログからの再掲です。

 

大学生の頃、異性とか、同性にウケたいというより、純粋に老若男女…人類にモテたいと思い、「いっぱい食べる人」になろうとしていた時期があった。

 

いっぱい食べる子は、世間的に好感度が高い気がする。そのアドバンテージ、ずるい!私も欲しい!…

 

ということで、間食、買い食い、何かにつけて食べていた。いっぱい食べる人イコール可愛いと思っていたし、食べること自体命を作る行為だから、偉いのだと勘違いしていたのだ。

 

最終的に、祖父母の家で勧められるものを勧められるまま断らないという所に行き着いた。

 

父方の祖父母の家は、とにかく常時食べ物を勧められる家でお昼が終わればおやつを、夕飯が終わればデザートを勧められる(そしてお土産も持たされる)という家だ。

気持ち自体は有難いし、愛情だとは思っているが、元々断るのが苦手な私は、大体を食べ、毎回お腹いっぱいになるという有り様だった。

そこにさらに「絶対断らない」を足すとどうなるか…

 

結果、食べ過ぎて胃の限界に達し、戻した私は、「私の体はいっぱい食べるように出来ていない、つまり、私はいっぱい食べる君が好き…が出来ない…」と悟った。

以来、身の丈に合わないほどは食べなくなった。

 

大学生前半は、特に、「食べる」という行為に囚われていたように思う。

高校時代、修学旅行先で、出されたご飯が多くて食べ切れない、という子のご飯を貰ったりしていた。単純にその時は胃の容量的に入ったのもあるけれど、「残してはいけない、許されない」という思いがどこか強かった。

 

祖父母が、食べ物を勧めてくるのは孫に食べてほしいからで、愛で、沢山食べる子はきっと可愛いに違いないと思っていた。

 

この時期の私にとって、まず、食べることは命や身体を維持するもので、さらに、正義で、そして、ご飯を作ってくれたり、与えてくれるのは愛で幸せだから、絶対にNOと言えない。

 

また、出されたものは、「美味しい」と言うまでが儀式で、私が実際どんな味で、どう感じたかはどうでもよく、必ずその合言葉を言わねばならない…

 

つまるところ、食事とは半ば強迫めいた響きを持っていた。

そしてそれは他人とだけなく、自分一人の時でも同様で、「もっと食べなければ」「あれも(栄養として)摂ら無ければ」と思いこんでいた。「美味しい」と言わねばならない、と意識しすぎた食事の味は分からなかった。

ちなみにこのときは、精神的に落ち込むと、過食に走っていた時期でもあった。もう滅茶苦茶である。



話は戻るが、人から愛されたいという気持ちと、自分の中の食べることの正当化が引き起こした「食べ過ぎ」により、正気に戻った私は、これからは自分の胃の声を聞こうと決意。

修学旅行で「もう食べられない」と訴えた同級生達も、けして間違っては無かったと知ったのだ。

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